青森埠頭〜八甲田雪中行軍像〜城ヶ倉大橋

平成20年5月6日



天候(晴れ)




 

青森港埠頭にて(nabeちゃん・Gonちゃん)


青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、青森県青森駅北海道函館駅の間を結んでいた
日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道連絡船である。
航路の名称は青函航路。営業キロ上の距離は、113.0km(擬制キロ)とされていた。
旅客と鉄道車両の他に自動車航送(指定駅のみどりの窓口で予約が可能)も行っていた。

1946年7月1日から1949年7月15日までは、GHQより貸与の戦車揚陸艦ではあるが
青函連絡船の小湊 - 函館航路もあった。小湊桟橋は平内町大字東滝字浅所にあった。

1944年1月から1984年2月1日まで使用された貨物専用の有川桟橋は五稜郭駅
貨車操車場(通称有川操車場、五稜郭貨物駅)に直結していた。

青函連絡船HPより抜粋しました。






青函連絡船






現在の姿







観光物産館(アスパム)


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雪中行軍遭難の地

青森歩兵第8師団第5連隊(津川連隊長)第2大隊(大隊長:山口少佐)と弘前第31連隊(福島大尉)は
当時“白い地獄”と恐れられた真冬の青森・八甲田山麓で軍事演習の為と称して行軍訓練を行った。

弘前連隊総勢37名は雪山の怖さを知り尽くし、
地元の人を案内に付けるなど入念な準備と計画を練ったお蔭で目的地にたどり着くことが出来た。
一方、明治35年1月23日朝6時55分に零下6度の寒さの中を出発した210名の青森第5連隊は途中天候の急変に遭い、
縦横に吹き付ける吹雪で行く先を見失い道を迷い、体感温度は氷点下20度以下で体力を消耗し、
次々に力尽きて遭難して凍死。後藤伍長は雪の中に仮死状態で佇立して捜索隊の目印になった。

結局帰還したのは17名、その後5名が救助後凍傷等で死亡、生き残った責任者山口少佐も死亡するが、
治療中に容態が悪化して死亡したとか、責任を感じて拳銃で自決したとか、
軍によって殺されたとかの説もあり真偽の程は分からない。
結局最後まで生き残ったのはわずかに11名であったという世界の山岳史上でも最悪の遭難事故に終わった。

青森地方気象台に残る当時の記録によれば、23日から27日までは、いずれも真冬日で、
特に、24日は最低気温が氷点下12.3度だったと言う。
(北海道旭川では25日に氷点下41度を記録している) 
雪解けを待って掘り出された人もいた。結果的には、日露戦争勃発の緊張が高まる中、
青森から八甲田山を抜けて青森県東部に部隊を展開することが可能かどうか、
寒冷地における行軍のデータを取りたいと考える
軍幹部の安易な計画と冬山の恐ろしさに対する準備不足が悲劇を生んだと言われている 

(HPより抜粋しました)




雪中行軍銅像より八甲田山






 

銅像前にて(kunikiくん・gonちゃん・hodakaさん・nabeちゃん)








国道394号線に在る、(城ヶ倉大橋)






遊歩道入口は閉鎖中




 

国道394号線に在る (九重の滝)


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