母の旅立ち (キヨ)   戻 る

94年と6ヶ月の生涯を波瀾万丈に生き抜いた母「平成17年10月3日AM5:04分旅立つ」
5〜6歳の頃のSEI、
子供心に真っ黒になり黙々と働く母の姿が脳裏に蘇る


畑や田圃を駆けめぐり二毛作で収益を上げるため働く姿「春先に麦を刈り田植えをして秋に米の収穫」
動くことが好きなのか、落ち着いて居る姿が思い出せない
小さな雑貨屋を営みキャンデーや煎餅・一里飴におこし等を売る子供相手の軒下の出店である
満足に店番も居ないお店は売り上げよりも5人の子供「SEIは5人兄弟」の盗み食いの方が多かった
母は駄目なら諦める切り替えの早い人でした
私が中学生に成る頃はラーメン屋さんを開店していました
農作業をしながらのラーメン屋さんの二足の草鞋をはき昼夜なく働く母、そんな母を見て育った私達は
(働く者に追いつく貧乏なし)を生活の中に教えられた様に思います。

また負けず嫌いの母はある時、男性と取っ組み合いの喧嘩をしました
力で負けるのは決まって居ます
そんな母が出た行動は子供心に怖い思いが残りました
お酒とタバコが大好きな母!
一升瓶のお酒を煽り「あのやろう勘弁出来ねえ、とっちめて遣る」と出かけていきました
その後の記憶はありません・・・・・・誰かに抱えられて帰って来たように思います。

中学を卒業して直ぐに働きに出た私は母に教えられた「働け働けを物まねの如く実行する」が
所詮しれたもの何か違う仕事は「適職は」と模索するも中卒の私を迎えてくれる所は無い
どんな高校でも良いから卒業したいと考えが変わり夜間高校に通い始めた
仕事をして学校にも通う ん〜何か母に似てると今は思える
これが母の教えた二足の草鞋!!
二足の草鞋を履きながら私は目指した事は自分で商売をするんだと決めたことでした
母は失敗してもくよくよせずに違うことに挑戦する、
そんな母の姿が印象に残り現在の自分が居ることにも気がつきました、

私が働きだした頃を思い起こせば母は毎日パチンコをしていました
パチンコが大好きで「今のように自動ではなく玉を一個一個指先で穴から入れてバネ仕掛けのレバーで弾く」
朝一番の汽車で郡山に向かい最終の汽車で帰るのが日課に成って居ました
儲けて帰る事が多くご機嫌の母を思い出します

私が22歳の時に事業資金(自動車修理工場開業)を銀行に借りに行きました
物の見事に門前払い 母に相談したところ分家したときに本家から頂いた5反部の田地を処分しろと言うのです
失敗して無くなっても良い、「そん時はそん時だ好きなようにやれ」と当時のお金で150万円で売りました
そんな母の優しい大きな心に今になって偉大な母だと感じ感謝しています
居なくなって初めてわかる親の有り難さ 優しさ 思いやり 厳しさと果てしなく思い出します

私が事業を始めてから母は好きなパチンコをするのが日課に成りました
しかし長くは続かず畑仕事と山歩き(山菜やキノコ採り)に楽しみを見えだしました
小さな畑に多くの種類の作物を植えて収穫すると近所の皆さんに分けて歩きます
近所の人からは「きよさん・きよねいちゃん・きよあね・きよおば」等の愛称で呼ばれお付き合いいただきました
口は悪いが母は優しい心の持ち主だったと思います
情にはめっぽう弱く何時も涙を流して悲しむ姿がありました

母が82歳の時だったと思います
多くの花や作物を作り大事に耕していた畑があります
その畑を私は埋めてしまいました(仕事場にするため)
母が旅行に出かけた2日間の居ない間に”大事な畑を”埋めてしまったのです
言う事もございません お察しの通りです
母の怒りは頂点に達しました
「にしゃこの野郎なんちゅう事しやがった 人の畑げを埋めやがって勘弁できねい」と近くにいられない怒り様でした
しばらくは口も聞いてくれませんでした 訪れた人には皆さんに「おれげの野郎は飛んでもねい野郎だ」と
口癖に言いまくり怒りを露わに日々を送りました
そんな母も何時しなく話し笑顔を見せてくれる様に成る(数ヶ月後の事)
ただ絶対許さないと言い切ったのを覚えています
そして心残りで後悔の念に駆られています

そんな母が年とともに足が弱り畑仕事も出来なく成るのに年月は要らなかったのです
今思いば 何で後(畑を埋めるのを)数年待っていられなかった後悔しています
介護施設にお世話になり病院を行き来する事9年目の今日!
母は17年10月3日の午前5時04分旅だったのです

私は母に未だ許して頂いいないのです
永遠に許して頂けないまま旅だった母に手を合わせお願いいたしました
親不孝な清治を天国から怒ってください
いつか母の気持ちに近づけたら許してくださいとお願いしました
その時まで親不幸をお許しください・・・・・・母へ

写真に納められた笑顔が私の心を和らげてくれた。

平成17年10月6日 午後5:04分
・・・・・SEI・・・・