星空が見える我が家 貧乏と失敗を楽しむ我が人生    戻 る

  昭和22年生まれの私は 今も残ってる記憶の中に夜 目をさますと星空が見えていたのを思い出す
  今だったら素晴らしい建物で天窓付きの寝室かなと悟ってくれるだろう
  壁は所々穴が空き 家の中にはネズミがウロチョロ 戸は外れて動かない 風が吹けば穴を藁束で塞ぐ
  此処まで書けば お解り頂けたと思いますが とても人が住んでいる家には見えない我が家でした。

  しかし私はそんな我が家で 凄く楽しく暮らしてた事を思い出します
  兄弟は5人で 母親1人の働きで生計を立ていた我が家は 毎日の食卓に出る物と言ったら漬け物に
  みそ汁くらいで 偶には豆腐殻(キラズ)で作った煮物を 美味しく頂いた この様な生活の繰り開始でした。

  物心が付いたのは(自分の将来について)私が小学校3年の時で 大人になったら商売をやるんだと決めた。
  そんなとき自分の使うお金をどうしたら稼げるかと考え 気づいたのは新聞配達でした 
  今でも小さい(160cm)私は新聞配達に必要な自転車を古物屋さんから50円で買い錆びた所をエナメルと言う
  塗料で染めて仕上げ 私の夢を乗せて走り出したのです。

  一ヶ月のバイト料は600円だったと思う でも そのお金が色んな使われ方をしました その一つが鳥かごの
  材料費で鳥篭を自分で作り 親鳥を買い野鳥を生け取りにして(今は逮捕される)小鳥屋さんに売る等です

  中学卒業まで続けた新聞配達も止めて就職をしました でも二年で退職をし目的の商売を始めるために車の
  販売デーラーに入社 自動車の修理技術を所得22才で修理工場を開店した 昭和45年5月
  開店費用の150万円は 銀行に行って借り入れの直談判したが相手にされず 途方にくれ母親に相談すると
  私の母親は 世界で一番 子供を信じ守ってくれたと 今 感謝しております

  と言うのは当時 5反部(1500坪)の田畑が有りましたが お前の好きなように使いなさいと 失敗して無くなろう
  が構わないと 一つ返事で売却したのです

  売却代金150万円を工場建設費に充当したが 設備費が無い この時に他人の有り難さを教えられました
  22才の若造に 設備費の約100万円を 無条件で三年の分割払いで良いと機械メーカーのSさんが話されて
  納入してくれたのです(某 純正器機メーカー取扱店) Sさんは 私が某デーラーの整備工として働いていた時の
  知人です この時 困っている人が居たら助けると自分に言い聞かせました。 この考えが高い事業料を払う事に
  なったのです 後ほどの失敗につながる(昭和59年12月に保証人で3800万円の保証弁済)

  話が変わるが 面白い母親の話が有ります 子供の頃 月に一度位 カレーを作ってくれてた 
  私達は此が最高のご馳走でした ただ何時もジャガイモとネギだけのカレーでした 在るとき母が今日のカレーは
  肉を一杯入れたから食べなとニコニコとして言う 喜んで麦ご飯にカレーをのせ見るが肉は一つも無い 私は
  母ちゃん肉無いよと言うと  母ちゃんが ちゃんと見てみと一言   私が何もないと言うと  母の一言
  それが おあいにく様 と言う 肉だよと私達を笑わせて カレーを美味しく食べさせてくれたのです

  食事の事でもう一つ素晴らしい思い出が在ります 今 私が嫌いな食べ物が無いのは子供の頃の卵の事が在るから
  と思う と言うのは卵は当時 病気の時くらいしか食べれませんでした 鶏を飼っていたのですが卵は売る為で
  自分達の食用では無いのです 時々母が 5人兄弟の私達に 卵を一個くれるのです その一個を5人の兄弟が
  分けて食べます 黄身と白身をかき混ぜて 5個の茶碗に均等に分け 食べるのです それでも私達には最高の
  ご馳走でした 今 思えば 貧しい家庭環境の中で素晴らしい事を 自然に教えてくれた母親に感謝しています。

  修理工場を始めて五年目 昭和50年に 当時カラオケが登場したばかりの時(今は想像出来ない性能の悪い器機)
  カラオケの在る飲み屋を始めたのです 歌本を見て生の声がマイクを通し聞こえるだけの装置にも関わらず
  人気のお店に成りました でも 直ぐに同じ様な店が次々と出来三年程で閉店する羽目に成るが 数年後 飲食店
  の会社を興す切欠と成りました。

  私は母親の後ろ姿で いくら貧しくても 笑う方法と くよくよしない生き方を 自然に学びました
  商売がダメに成っても 事業料と割り切れる事や 又 頑張れば良いと考える様に成りました 

  そして昭和53年に カーショップ(車の用品店)を開店 素人の私は 問屋の言うなりに商品を仕入れ月々の支払いが
  売り上げの数倍にふくれ上がり 僅か五年で閉店する でもその時に人の付き合い方や 多くの人に出会いた事等
  私には お金で買えない事を 学ぶ 場所と時間になりました 持ち前の母親譲りの元気だけで乗り切りました

  話が前後するが 私の高校は通信教育の二年と 夜間高校の四年 頭は悪いが6年も学校に行ったのです
  当時 中学三年に成ると 就職組と 進学組に分かれておりました 私の家は貧乏で(頭が悪いせいも在りますが)
  中学卒業後は就職と決めておりました でも高校だけは何処でも良いから出たいと思い通信教育を受けたのです
  しかし卒業の資格は無く 再び二年後に夜間高校に通いました 二つ年の違う後輩や年上の先輩と勉強を除けば
  面白い毎日でした 卒業の年に喧嘩で無期停学に成るが無事卒業できました。

  その後 地元の繁華街で 飲食店 5店舗を持つ会社を設立 夜の町を歩けば殆ど顔見知りに成る位に店が成長
  そんな時 麻雀で大きな博打をし負けて 勉強に成ったことは調子に乗ってはダメと言う教訓と賭はしないと決めた
  事です 今 私は賭け事は大嫌いです そんな飲食店も十年後には全てを廃業や引き継ぎで譲り 手を引いたのです
  この十年間も人を信じると言う自分の気持ちを 二名の店長に裏切られ使い込みや持ち逃げをされた が 人を恨む
  のではなく 自分が社員を教育出来なかったと 反省する機会を与えてくれたと感謝しております。

  またまた話が変わりますが 私は お金持ちだと思います と言うのは お金は その時に必要なだけ在れば良いと
  思っているからです
  会社で在れば毎月々の支払いが出来れば良いし 家庭は贅沢を慎み(時々は良い)毎日暮らせる範囲であれば良いし
  それが私の言う お金持ちであるからです 私の経験から必要以外のお金は悪さをしたり 
  自分をダメにすると思うからです

  毎日が楽しく 仕事が好きな自分 そして趣味が多い自分 何不自由無く暮らしていた昭和59年12月 私が商売を
  始めたときに教えられた人を信じる 人を助けるが裏目に出たのです

  同業者の保証人になり 三つの銀行  一つのカーデーラー  1人の高利貸し と総額3800万円の保証弁済をする事
  に成ったからです
  その時ほど 妻の力強さを見たことは在りませんでした 全て お金に変える事が出来るものは換金 保険や預金の
  切り崩し等 愚痴の一つも言わず 貴方が信じてやった事だから仕方がないと 笑顔さえ見せて乗り切ってくれたのです
  此も勉強と割り切りました ただ今までと違ったのは 人を信じるが 
  お金に関わる様な事は此からはしないと決めた事です

  この様な私の人生の中でもう一つの失敗が在りました それは運送業を始めたときでした 運送業と言っても二d車 二台
  を持つ専属配達で 某デパートの販売品の配達です 毎月 順調に利益を出していたのですが 思わぬ事故が続けて
  起きたのです 満足な損保にも入って居らず タクシーへの追突事故 民家への衝突事故と 
  私にしてみれば莫大な金額の支払いに成りました 
  この時も車の代金支払い残と 保証の為の借り入れ残 が 残るだけの数年でした

  この様に色々な事業に取り組んできましたが 殆ど失敗に終わり 今 残っている事業は 
  45年に始めた修理工場と関連事業
  産業廃棄物の処理工場 及び 収集運搬業(平成3年創業)だけと成りました
  今 思えば 事業を続けて来れた機縁は 失敗したら諦める 次に進むと ハッキリと区切りをつけた事だと思います。

  私は 人生一生勝負と思っております 又 常に新しい事に挑戦する気力を失わない事が大切とも思います
  それには 毎日を楽しく生きると言う人生観を養うこと 朝起きた時に今日もやれると幸せを感じる事 
  食事をするとき美味しいと言葉を出して感謝する事など 常々 
  自然に思える人間に成りたい 一生 幸せに暮らすと自分に言って聞かせます

    ・・・・・・・・SEIの独り言・・・・2001年11月15日・・・・・・